makitusoraのブログ

森の中の生活

終戦直前の1945年8月7日午前、豊川海軍工廠(こうしょう)(愛知県豊川市)が米軍に爆撃され、2500人以上が死亡した空襲で、石川県出身の女子挺身(ていしん)隊員52人も命を落とした。爆撃から77年となった7日午前、金沢市卯辰山に立つ「殉難おとめの像」の前で慰霊の集いが開かれた。

 元隊員や遺族ら約20人が慰霊の歌「ああ豊川女子挺身隊」を歌い、黙禱(もくとう)を捧げた。

 「いつまでも長生きしてごめん」。元隊員として唯一の参加者となった西村八重子さん(97)は、犠牲になった他の隊員たちに心の中で語りかけた。

 あの日、寄宿舎で爆撃を受けた西村さんは、とっさに耳を塞いでうつぶせの姿勢をとった。顔を上げると、建物は吹き飛び、かすかに「助けて」といううめき声が聞こえてきた。自身は腕や腰に重傷を負いながらも何とか外にはい出た。

 「友達はみんな焼け死んで、私だけが助かった。戦争だけはあってはならない。それだけしか言いようがないわ」

 生き残った元隊員らで46年に結成した「豊友会」には数百人の会員がいたが、現在、連絡を取れる人は20人もいない。会の世話人で、元隊員の母を数年前に亡くした中山正一さん(73)は、「私らの体が動くかぎりは集いを続けていきたい」と語った。(小島弘之